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 小林家は13代 鳩三までは徳川将軍家に、14代 小林宇太郎からは宮内省(現宮内庁)に仕えました。小林宇太郎には実子がいなかった為、その技と心は同庁に仕えていた弟子である15代 福田亮助氏、16代 花見薫氏に受け継がれました。
 15代 福田亮助氏は花見氏の先輩で宮内省鷹師になり、日露戦争時代には小林宇太郎氏に同行しハヤブサによる軍用伝書鳩の追い払い実験を行いました。福田氏の弟勘蔵氏は千鳥笛の達人であったと言われています

 しかし戦後、宮内庁が公式の鴨猟に鷹狩を使用しなくなったため、先代の花見先生は弟子を育てることができなくなってしまいました。そのような折、埼玉鴨場で場長をされていた昭和45年(1970)に、同鴨場を訪問したのが当代鷹師の田籠先生でした。花見先生は宮内庁に配慮され、定年退職した後に伝統的な放鷹術の火種を残しておこうと田籠氏に指導を行い、田籠氏は昭和58(1983)年、当時の仲間であった篠崎隆男氏、室伏三喜男氏と日本放鷹協会を設立、花見先生を昭和60(1985)年に同協会会長として招聘しました。
 花見先生には85歳まで現場で放鷹術の指導を頂き、やがて1996年、田籠氏を17代鷹師として允許してからは田籠鷹師がその任を担いました。

 同協会では当初は流派を限定せず、広義の放鷹文化に興味を持つ会員を募集してきましたが、田籠鷹師は年々活発になる国際交流を通じて、諏訪流放鷹術を研鑽、維持する事は稀少性・固有性を高めることであり、さらに世界的な伝統文化保存活動( ユネスコ )への一助になることを認識しました。また鷹匠の技と心は現代の日本においても広く人間形成の礎となりえる事を実感しました。 

 先代の花見鷹師より継承した伝統的な諏訪流放鷹術を正しく理解してもらい、また師弟制度による積極的な指導と修練によって優れた諏訪流門下生を育成することに専念するため、田籠鷹師は2006年12月吉日、新たに諏訪流放鷹術保存会を発足しました。現在、同保存会は諏訪流第17代宗家である田籠鷹師の直接指導を得られる唯一の場であり、当ホームページが支援する「 諏訪流鷹匠 」とは、当代鷹師が認定した鷹匠を示しています。

 諏訪流放鷹術とは何か、を一言で語ることはできませんが、その特徴として一般的によく知られているのが、網懸( あがけ:巣立ちした若鷹 )の鷹を調教することを得意としたということでしょう。これは諏訪流が古い流派のひとつであり、網懸の持つ鷹らしく美しい居住まいと、鷹が備えている高い身体能力や狩りの技術を好んだ点が理由としてあげられます。また野性の鷹が野生の獲物を捕る、追い払うという行為は、神の化身としての鷹の役割を示唆しているとも言えるでしょう。贄鷹の神事を司っていたことは、鷹を扱う上での精神性を培いました。先代の花見先生もおっしゃったように、「 鷹を主人として仕えよ 」という言葉は鷹が神の化身であり、鷹匠は仕える立場であること、鷹の心を常に伺い、傷つけないように我慢強く接するためのひとつの指針なのです。

 それでも網懸の鷹の多くは、野生下で親が教えた獲物以上の大きな獲物を捕らせるにはあまり適していませんでした。それは、鷹は本能的に自身が怪我をする恐れのある獲物にはなかなか向かおうとはしないためです。野生で生きていくためには必要な判断でしょう。それでも鷹に新しい目的を教え、鷹がその技を学ぶと、巣鷹ほど楽ではありませんが、その技を応用して小さい鷹でも大きな獲物を捕りかためることができるようになるのです。江戸時代に入ると吉田流などの巣鷹(すだか:巣の中にいる雛)を育てて鶴や雁などの大きな獲物を取らせるなどの工夫をこらした流派が現れ、将軍家から皇室への鶴の献上が恒例の行事となりました。そのような特長の違いもある為か、徳川吉宗の時代には吉田流は千駄ヶ谷、諏訪流は千駄木の鷹部屋へと分かれ、技の研鑽に励むことになったようです。

 多くの鷹が献上された時代であっても、当然のことながら各流派がそれぞれ得意とするような鷹ばかりが国内外から入るわけではなく、各鷹匠はそのような最適の鷹しか扱わなかったわけではありません。各流派にはそれぞれの理想とする鷹ならびに鷹匠の生き方があり、それが諏訪流においては、網懸の品格を元にするものであったということなのです。吉田流や他流派においても同様にその流派の求める鷹らしい能力を引き出すことを目標として、鷹匠たちは調教に従事していたのでしょう。

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