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8月19日 「大名庭園を歩く」 場所 東京都立小石川後楽園 |
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小石川後楽園は、寛永6(1629)年、水戸藩初代藩主徳川頼房が徳川二代将軍秀忠より下賜された土地を作庭し、二代光圀の頃完成し、後楽園と名付けられました。園内には、えい鷂碑という愛鷹の碑が残されています。
七代藩主徳川治紀(はるとし)が逝去し、治紀が将軍家から拝領して大切にしていた鷂も4年後に亡くなったため、八代藩主徳川斉脩(なりのぶ)がこれを悲しみ文政2(1819)年に建立したと言われています。
入口には1830年頃の庭園内の図面が掲示されており、九代斉昭の頃までは御鷹部屋があったことが伺えますが、関東大震災、太平洋戦争のため焼失したようです。
現在は残されていませんが、園内を巡りながら当時の面影を偲ぶことができます。絵本鷹かがみの一枚に似た松林の風景に触れて、鷹狩を思い描くのも面白い体験となるでしょう。
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9月9日 「鴨場を歩く」 場所 東京都立浜離宮恩賜庭園 |
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徳川四代将軍家綱の弟綱重が与えられた「海手屋敷」は、かつては一面に蘆の生える浜辺であり、将軍の鷹狩の場でした。六代家宣の時に正式に将軍家の別邸とされ、「浜御殿」の名で明治まで続きました。十一代家斉は鷹狩のみならず、乗馬や茶事などを楽しむため90回以上訪れ、正室繁子や奥女中もともに釣りを楽しんだそうです。京都から下向した公家たちも釣りを楽しんだと言われ、社交場として愛好されてきました。
明治政府の所有となってからは宮内省の鴨場となり、天皇の鷹匠たちは電気もガスもない鷹匠部屋に寝泊まりして鷹の調教にいそしんでいたようです。終戦後の昭和20(1945)年に東京都に下賜され、現在は一部修復された引き堀に鴨猟の形式が残されています。
田籠鷹師によって鷹匠部屋のあった場所や鷭(ばん)猟を行ったという鷭堀(現在非公開)、引き堀の使い方などを指導して頂けるため、鴨場としての機能が十二分に理解できます。
また築山から海岸を望むと浜風が心地よく、海岸線が広がっていた頃とは全く異なるビル群の中で、現在でも稀少な憩いの空間であることを再認識されるでしょう。汐留のビル風は年々強く複雑になっており、厳しい環境の中で鳥達が生き抜いていることを思うと、新たな感慨を覚えます。
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